感想終わり。以下益体もないことだけ話します。まー何が言いたいって要するに鈴木央は現代人じゃないってことなんですけどね。とりあえず要点を書かずに辺縁部の話を先にしますが(←最低)、これだけたくさんの「現代の」作品に囲まれ、でその辺の言及が(当たり前ですが)全然ないとは言っても触れているには間違いない彼が、ものの見事にそれらからの影響をスルーしているのにはもう感動しかないわけなのです。

 ちょっと歴史的な話をしましょう。今資料なしで持ち出せる例が三国志なんで三国志で話をします。ご存知の通り三国志にはいわゆる「正史」と「演義」の二種類がございます。荒唐無稽でその名を知られる演義ではございますが、実はそこに至るまでに二段階の過渡期を経ているのでございますよ。第一段階は「講談」。第二段階は「正話」。以上乱暴にまとめますと「正史」>「講談」>「正話」>「演義」の流れが出来上がるのでございます。

 ところでお年寄りと水戸黄門の話がございます。有名ですよね、水戸黄門というドラマは印籠が出る辺りで毎回最高視聴率を記録するって。この話はひとつの事実を示唆しております、いやこんなの改めて書くまでもないんですが、つまりお年寄り方は「最も痛快な場面だけを見たいと思う」のでございますよ。そこで物語をかじった方はこう思いますよね、「いやちょっと待て、その前の艱難辛苦を乗り越えた末で印籠が登場するからこそ意味があるんだろ」と。けれどご老人方は間違いなく「意味のない」印籠のシーンにカタルシスを覚え、満足するのでございますよ。この辺りの認識の齟齬については敢えて造語を持ち出して規定させていただこうと思います。すなわち「物語への習熟度」。

 はい三国志に戻りますよ。先だってご紹介した流れ「正史」>「講談」>「正話」>「演義」ですが、ちょっとここに細工をひとつ加えさせていただきますね。「正史」>||「講談」>「正話」>「演義」といたしましょう。いま前段落にて「物語への習熟度」と言う話を持ち出させていただきました。察しのよろしい諸兄であれば、当然印籠云々の話がこの流れに関与するものであるとお気付きになられるかと思います。

 ここで正史の後に分断を設けましたは、正史の性質が情報の集合体でしかない、と言う点を鑑みて。その後は物語を体験する者の「物語への習熟度」が深まるにつれて流れの下流に達する、と考えていただければ差し支えないでしょう。即ち「講談」は三国志と言う物語の中でも特に著名なエピソード(「桃園」「赤壁」など)を面白おかしく伝えます。「正話」はそれらのエピソードを地続きの物語として均します。そして、そこに物語的な調整を加えたものが「演義」であります。

 ここまでのお話を端的に総合してしまいましょう。「物語への習熟度」的な観点で鑑賞者を眺めた場合水戸黄門の印籠のシーンだけに興味を示されるお年寄りは「講談」レベルの、そしてそのお年寄りを見て「ちゃんと前から観てやんなよ……」と苦笑するお孫さんは「演義」レベルの習熟度を備えている、と言うことができるのでありますよ。

 もうちょっと話を進めると「じゃあ鈴木央の習熟度は?」と言う話になりますね。では今度これを別の観点からお話してみましょう。

 鈴木央という漫画家の作家性、その根底に中世ヨーロッパの世界が横たわっているのは既に常識ですが、巷間でよく言われる鈴木作品の端的な特徴「主人公マンセーが強すぎ」の要素はこの世界、具体的に言えばマロリーやブルフィンチと言ったアーサー王物語を描く作者たちと基本的な性質を一としているのです。

 アーサー王の物語というのは、単純に言って超人たちが運命とかの悪戯に翻弄され、それでも戦うお話であります。ぶっちゃけ申し上げまして相当な脳内補完能力の高さがないと現代人がこの物語に萌えることはできません。何故ならばそもそもアーサー王物語そのものが物語を体験する対象を「講談」もしくは「正話」レベルの物語習熟度を備えたものとしているからであります。即ち我々は補完者の手によってこれらが加工されて初めて物語に萌え萌えできると言う次第なのです。なお誤解のなきよう断っておきますが、恐らく鈴木央はその感受性という点においてのみ言えば間違いなくこれらの物語を補完を交え楽しんでおります。ええ多分に無意識に

 閑話。あまりにも無意識下での補完でありすぎるために、結局自分から何か物語を発現させようとすると相当に「正話」レベルのものが出来上がってしまうのですね。つまり物語について、自分と同じレベルでの補完を読者に求める構造が出来上がっている、と言うことです。ですので、いつぞやどなたかが仰っておられた言葉ですが「瞬間最大風速はすごいんだけどねぇ……」と言うコメントが現れます。「正話」レベルですので、自分が最も表現したいものに到るまでの道のりがあまりにも均されていなさ過ぎるのです。

 休題。アーサー王たちは超人であり、そもそもにしてそこいらの人間どもにどうこうできる存在ではありません。敵対者は彼らを向こうに回してしまったとに疑問を覚えることもなく、また自らの運命を嘆くこともなくアーサー王たちと戦い、そして敗れます。理由は「超人たちと戦って勝てるはずがない」から。実際いわゆる円卓の騎士の崩壊原因は自壊です。外部からの要素は諸々あったにせよ。

 敵は破れるべき存在であります。ゆえに雑魚であります。我々の物語世界の常識で言えば敵役、それもラストボスの存在は非常に大きい。ところがどうでしょう。我々はアーサー王、ケイ、ガヴェイン、ラーンスロット、ガラハッド。これら主人公たちの名前は比較的容易に出すことが出来ますが、アーサー王を殺すに至った男モードレッドの名前は容易に思い出せません。ちょっと違う話になりますが英雄ジークフリートが登場するニーベルンゲンの歌においてラストボスはグットールム、もしくはハーゲンであります。聞いたことありますか? 即ちラストボスですら雑魚なのであり、結局のところ我々の物語的な感性から言えば「つまり黒幕は運命もしくは神」としかいえないのであります。

 物語集熟度が高い人間が要請する物語に於いては、主人公の偉大さは偉大なる敵役を越えるという間接的な手法で描かれます。つまり主人公の偉大さを証明するということそのものが物語上のギミックとして作用しているのです。一方習熟度が低い人間が求めるそれの場合には「主人公はすごいに決まっている」のが大前提となります。その上でどのような物語が展開されるか、と言うところがキーとなる。証明というところまで物語の上でやられては、習熟度が低い人間にとっては煩瑣に過ぎたものになってしまうからです。とすれば、敵役・相手役は主人公に淘汰される以上の役割を持ちません。それこそ障害物走におけるハードル程度の代物と言えましょう。

 さて、ではそろそろブリザードアクセル(と言うよりも鈴木央漫画)に立ち戻りましょう。この漫画において主人公・吹雪の前に強大な壁として立ちはだかっているものはなんですか?

 現代社会を生きる我々の周りには、無数の優秀な「物語」が当たり前のように存在しております。ですが以上のように見て頂けた通り鈴木央という漫画家は、「物語」の表層に見えるところはどうであれ根底の部分ではまるでそれらの影響を受ける気配がありません。これらを以って所与の命題「鈴木央は現代人じゃない」を証するものであります。

 はーたのちかった。